遭難犠牲者慰霊法要

浮世絵押上村行楽

日蓮宗全国社会教化事業協会連合会会長代行  齋藤堯圓

対震災に遭遇した本山孝勝寺

 3月11日発生した東日本大地震及び大津波さらに幾度もの余震によって、尽七日忌にあたる4月28日現在、14,575名の方が命を落とされ、今なお11.324名の行方が知れない。被災された地域の一日も早い復興と、亡くなられたあまりに多くの犠牲者の方々の冥福を祈り、全国社会教化事業協会連合会が企画をした東日本大震災「復興祈願 ひかりと祈りの集い」ならびに「遭難犠牲者慰霊法要」が、4月27、28日に仙台市宮城野区本山孝勝寺において執り行われた。被災直後の混乱の中、亡くなられた方に懇ろな供養をすること自体不可能であり、この「復興祈願 ひかりと祈りの集い」ならびに「慰霊法要」を、被災地のみならず日本全体が、復興に向けた意欲を呼び起こすきっかけの場となることを願って企画したものである。企画案が出てから当日まであまりに短い期間であったが、日野教恵宮城県宗務所長が実行委員長をお引き受け下さり、共催に孝勝寺、宮城県宗務所、宮城県社会教化事業協会の尽力を賜り、また全日本仏教会、東京都仏教連合会、日蓮宗宗務院伝道部、宮城県宗教法人連絡協議会、仙台仏教会、本所仏教会にご後援を頂いた。
 28日の慰霊法要は本山孝勝寺貫首谷川海雅猊下導師のもと、日野実行委員長以下宮城県宗務所各聖、当全国社教連合会役員有志が出仕し、後援各会からも多数の御出座を頂いた。遠く岡山からは一心寺住職並びに僧侶4名と檀信徒7名が山形空港を経由して駆けつけてくれた。仙台市内はインフラが復旧し市民生活が落ち着きを取り戻したかに見えるものの、この法要があることを広く知らしめる事には困難があった。しかしながら近隣に住む檀信徒のみならず、ポスターやインターネットの情報、あるいは人伝に開催を知った被災遺族や復興を願う市民が多数参列し、猊下の読経が始まるとすすり泣く声が堂に満ちた。犠牲となられた方への供養、いまだ行方のわからぬ人が一日も早く家族の元に戻れるよう、また生きて残った人々が「生きていて良かった」と思える日が一日も早く訪れることを、心から祈る人々の焼香の長い列が続いた。
 この前夜同じく孝勝寺の境内において「復興祈願 ひかりと祈りの集い」が行われた。キャンドルアーティスト小泉純司氏が無償で提供して下さったお地蔵様の型紙を防炎加工した封筒に1000枚印刷し、大勢の人が手分けをして切り抜いたものに、祈りの言葉を書いていただき蝋燭を灯すことを企画した。慣れないカッターナイフを使って一枚一枚切り抜くことも大変な作業であったが、その背に祈りの言葉を書いてもらう事にはさらに大きな障害があった。まず誰よりも被災された方、大事な家族を亡くされた方、未だに大切な人の行方の分からぬ方達に書いていただきたく、開催の一週間前に仕上がったお地蔵様の封筒をもって被害の大きかった名取市中心部の避難所を訪れたが、責任者からはまず役所の許可をとることを求められた。市役所の担当者は政教分離の建前を崩すことは無く、宗教団体や宗教者が避難所を回ることは断るとの返答であった。28日の尽七日忌慰霊法要は日蓮宗孝勝寺が主体となって行う仏教行事であるが、その前夜に行われる「ひかりと祈りの集い」は日蓮宗や仏教会が企画運営に携わっているが宗教を前面に出す催しではない旨再三説明したが、僧侶である私に許可は下りなかった。
 この日打ち合わせに孝勝寺を訪れる前に、当山檀家夫人の実家がある名取市閖上地区にも立ち寄った。被災直後に訪れた若林区と同様一面瓦礫に埋まった中に寺の本堂と思われる屋根が見えた。訪ねてみると副住職夫妻が二人で瓦礫を片付けている最中だったが、そこが檀家夫人から頼まれて探していた曹洞宗東禅寺であった。本堂は確かに形が残っていたが壁は無くなり屋根も半分崩れかけている。広い墓所の墓石は全て倒れて海砂と瓦礫に覆われていた。その中で二人が探しておられたのは本堂脇に建立されて今は跡形も無い観音堂に1200体安置されていた小さな木造の観音像であった。自宅の様子を見に来たり片付けに入った近隣の人が一つ一つ見つけてはここに届けてくれているとのこと、既に200体ほどが見つかり外の平らな石の台座に並べられていた。聞けば老住職夫妻はこの津波で亡くなり5年ほど前に新築した客殿は流され真新しい庫裏も形は残ってはいるがとても使える状態ではない。奥様の実家で避難生活をしながら檀家や地域の人々のケア、瓦礫の片づけを続けておられる。その副住職にこの集いのことを話してみると、ぜひお地蔵様の背に祈りの言葉を書く手伝いをさせてくれと申し出てくれた。外から来た私のような者には許可は出ないが、地元の寺が回る分には問題は無いはずだと言って、100枚ほどを引き受けてくれた。しかし自身被災者であり地元の人々の精神的支えとなって活動しているこの師にも役所は許可を出さなかったそうである。27日夕刻わざわざ孝勝寺までお地蔵様を届けて下さった師は、再三役所と掛け合ったがその壁は厚く、ならば檀家を回る分には文句は無かろうと、あちらこちらの避難所や一時的な仮住まいに分散した檀家を一人ひとり訪ねて歩いて祈りの言葉を書いてもらったとのことであった。多くのボランティアと共に準備を始めていた私ども社教連合会役員はしばし絶句してしまった。
 同様の政教分離問題は実は東京でも起きていた。この震災の犠牲者のうち身元の分からないご遺体を東京都瑞江火葬場で荼毘に付す事が決まり全日本仏教会、東京都仏教会が読経を申し出たが都からの許可は下りなかった。仕方なく火葬場と道路を挟んだ向かいの路上に焼香台を置き閉まった門に向かって有志の僧侶が読経するということになった。僧侶は門内に立ち入る事はできず着替えもトイレも近くの大雲寺が提供してくれているという状況であった。この状況を毎日目にする周辺住民から強い抗議の声が上がり、ようやく門の内には入れたが読経を屋外ですることに変わりはなく、それでも江戸川仏教会や東京都仏教連合会等が中心となって毎正時ごとの回向供養を続けている。
 確かに日本人全員が仏教徒というわけでは無く、神道、キリスト教、イスラム教はじめ様々な宗教を熱心に信ずる人がいることは承知している。無宗教だと思う人の数も大変な勢いで増えている。中には悪質な新興宗教などがこのような機会に乗じて暗躍する危険性があることも理解するが、あまつさえこの未曾有の惨事で人心の定まらぬ時に、人の死を一切の宗教を排して「処理」しようとする行政の姿勢には疑問を抱かざるを得ない。以前宗報に報告を書いた中国青海省の地震被災地では、ラマ教本山隆務寺の境内で毎晩蝋燭を灯し僧俗共に祈りを捧げることによって人々が悲しみをこらえ復興に立ち上がっていたことを思うと、言葉も無い。
 27、28の両日参列した多くの人からいただいた「これでようやく一歩前に進むことができる」という言葉に、我々僧がむしろ励まされたような気がしてならない。近年日本で起こった大災害の慰霊式はみな宗教色を排除して行われている。長崎、広島、阪神がその例として上げられよう。ただ一箇所私が所属している東京都仏教連合会、本所仏教会が東京都慰霊協会と手を携えて行っている関東大震災と東京大空襲の遭難犠牲者慰霊法要は、毎回皇族のご臨席を仰ぎ東京首長である都知事を主賓に迎えて、この88年間仏教儀式で行ってきた。毎回輪番で各宗本山の貫首猊下が導師となり午前中に慰霊法要が行われ、その後は本所仏教会が宗旨宗派を超えて全員で塔婆を書き毎正時に共通の差状に法って読経供養する。これは関東大震災直後に黒焦げの死体の山に向っていち早く読経を始めた日蓮宗僧侶梅木日進上人、釋日達上人お二人の活躍とそれに啓発された本所仏教会の僧侶方、東京都仏教会の僧侶方の奉仕活動が基であり、その活動に感銘を受けた天皇陛下からお言葉を賜ったことから今日まで仏式での供養が続けられている所以である。9月1日と3月10日には納骨堂も開けられ誰でも中に入ってお参りができる。堂宇も開放されていて誰でも座って経を聞く事ができ共に観音経をあげて供養することもできる。焼香も自由である。途中音楽の演奏や劇の上演も行われるがその間も焼香は自由にできるようにしてある。場内の整理には地元のボーイスカウトが当たり、立正佼成会の会員が来賓や僧侶にお茶を出したり清掃奉仕をしてくれたりする。近所の子供達が神妙な顔をして焼香した後、歩道に並ぶ屋台に一目散に向って行く。慰霊堂の周りは広い公園になっていて、そこで賛美歌を歌って祈っている団体もある。普段は散歩や運動の人の姿が見られ子供達の格好の遊び場でもある。  このたびの被災地にはいずれ慰霊堂やモニュメントができるであろう。しかしこの後年毎の合同慰霊祭をそのような公の場を使って仏式で行う事を、行政は許さない。「キャンドルに灯をともす」ことや「花を捧げる」ことはあっても、唱題はおろか焼香すらさせないであろう。国民の大多数が、信仰の深さはそれぞれであるとしても仏教徒だと思っている、この日本においてである。このままでは人々の生活と仏教はますます遠いものとなっていくのであろう。東北の伝統に育まれた仏事慣習が住民の離散、寺の損壊により風前のともしびとなっている今こそ、○○宗○○派の教義が大切であることは言うまでも無いが、もちろん私も釈尊の教え、宗祖の導きを世に弘めるために出家を志したのであるが、今はこの大惨事を乗り越えて、一日も早く人々の心に平安が訪れるよう、全ての宗教者が「祈る」ことの大切さを身をもって社会に示していく事こそがその使命と考える。

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