春慶寺について
日蓮大聖人のお言葉

住職と仏教との出会い

私はお寺関係の出自ではないので、まさしく「目に見えない深い縁」によって仏門に入ることになりました。
お恥ずかしい話なのですが、私には精神的にとても荒れていた時期があります。中学3年生の頃で、いま振り返って見ると、完全なノイローゼですね。母親に当たり散らし暴力を振るうというひどい状態でした。医者に見てもらっても「簡単には治らない」といわれ、母は私を殺して死のうとまで思いつめたそうです。
それが、ある尼僧さんに出会うことによって、その病が治ってしまうという衝撃的な体験をしたのです。その尼僧さんが私のそのときの状態を見抜き、治してくれたのです。
私を救ってくれた尼僧さんは日蓮宗の方で、法華経をご自身の宗教の糧としている方でした。それが最初の仏縁です。
また、同じ頃に、宮沢賢治の童話と出会いました。私を治してくれた尼僧さんの法力のエネルギー源は法華経でしたので、その法華経に命を賭けた宮沢賢治の世界に自然と引き込まれました。その生命観と宇宙観の深さ。なかでも「ひかりの素足」という、人間の生と死、そして生命の宇宙的広がりが凝縮された一遍に強く心をひかれました。
こうしたことによって救われ生かされた自分の命を、今度は他の方々のために役立てたいという「報恩感謝(ほうおんかんしゃ)」の念が強く湧き起こり、仏への道を選ぶことになったのです。

春慶寺400年の歩み

押上村行楽の絵

春慶寺は、元和元年(1615年)浅草森田町の地に、真如院日理上人によって創建されました。その後、寛文7年(1667年)に浅草から本所押上村に移転、現在まで約四百年の歴史を持つ由緒あるお寺です。
江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年、巳年守り本尊として多くの参詣人で賑わっています。当時の隆盛ぶりは、「東都歳時記」や「武江年表」等で再三紹介されています。また、天明(1781~89年)の頃に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という浮世絵には、石の道標に「押上村」「普賢菩薩」という文字が見られ、押上村の春慶寺に“お参りに行く”ことが人々の大きな楽しみであったことがうかがえます。
現在、境内には「鶴屋南北の墓」や「関東俳優之碑」が残っています。震災や大戦による災禍もあって一時、寺運が衰えたこともありましたが、昭和58年、奇特な信者の寄進と役員の努力により再興されました。そして平成13年7月、浅草通りに面した境内地に新しい堂宇を得、普賢菩薩鎮護の法華経道場としての道を歩みつづけています。

鶴屋南北の眠るところ

鶴屋南北の墓

春慶寺は「東海道四谷怪談」の作者として有名な、四世鶴屋南北の菩提寺として知られています。南北は江戸乗物町(中央区本町4丁目)の紺屋伊三郎の子として生まれ、安永5年(1776年)初代桜田治助に入門し、文化元年(1804年)の「天竺徳兵衛韓噺」で当てたと言われます。同8年(1811年)四世鶴屋南北を襲名し、永く名声をほしいままにしました。文政12年(1829年)11月27日に亡くなった南北の葬儀は翌年1月13日この春慶寺で盛大にいとなまれました。深川の黒船稲荷の自宅からこの寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子がふるまわれ、生前あらかじめ書き上げた自らの葬いをめでたい萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどまつごまんざい)の台本が配られました。

鬼平犯科帳の舞台となった春慶寺

鬼平犯科帳・切り絵

池波正太郎氏が作り上げた傑作『鬼平犯科帳』。この小説は江戸期に実在した幕臣長谷川平蔵宣以(1745~1795)が、火付盗賊改方として活躍するさまを描いたものですが、春慶寺はこの中で、鬼平の親友 岸井左馬之助の寄宿先として、たびたび登場しています。とくに、「明神の次郎吉」(文春文庫第八巻所収)という作は春慶寺を舞台とした筋立てとなっており、当時の押上近辺の様子が生き生きと描かれています。

春慶寺を出て、横川沿いの道を南へ行くと、川べりの草むらに、蛍が飛んでいるのが見えた。夏の夜である。町家の灯りも消えていず、まだ子どもたちの遊ぶ声がきこえた。「鬼平犯科帳」文春文庫第八巻「明神の次郎吉」より引用

春慶寺アクセスマップ

■都営浅草線・京成線「押上駅」A2出口より徒歩1分。
■東京メトロ半蔵門線・東武伊勢崎線「押上駅」 B2出口より徒歩2分。
■JR「錦糸町駅」北口より徒歩13分。または、バス(都08) 日暮里駅行き「押上」バス停下車徒歩2分。
長養山 春慶寺 〒130-0002 東京都墨田区業平2-14-9 tel:03-3621-1338 fax:03-3621-1345 
mail:oshiage@syunkeiji.jp http://www.syunkeiji.jp

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