被災地報告

東北関東大地震被災地報告

日蓮宗全国社会教化事業協会連合会会長代行 無憂花基金代表 春慶寺住職  齋藤 堯圓

仙台市内の遺体安置所

 3月11日の東北関東大地震発生後、全国社教連合会として被災地の情報を得るため出来るだけ早い出向を試みたが、種々の事情にはばまれ22日ようやく夜行バスの席が取れ、23日早朝に仙台駅に着いた。
個人的にも母の出自が仙台で親戚が多く、今回被災の激しい若林区が親戚ゆかりの地でもあることから、目的地を仙台とした。親戚の持つマンションが倒壊を免れたのでその一室を提供してもらい、やはり私の親戚であり熱心な日蓮宗信徒でもあるWHO東アジア地区担当医の押谷仁医師夫妻のアドバイスを頂きながら情報収集にあたる事とした。23日には宮城県宗務所地震緊急会議が本山孝勝寺で10時半より開かれるという情報を頂いたのでまずそちらに伺うことにした。
 23日朝5時半仙台駅に到着したが駅構内は損壊が著しく入場禁止との事、市内中心地の建物は一見無事の様に見えるがインフラの破壊がすさまじく電気水道がようやく通ったばかりでガスはまだ復旧しておらず、もちろんガソリンも供給されていないので自家用車は走っていない、ガソリンスタンドに何百メートルも車が並んでいるが運転手の姿は見えない、異様な風景である。
 新潟から運ばれたLPガスでタクシーとバスだけが一部利用可能である。コンビニやスーパーは開いているがおにぎりやパンは無く、それでも人が沢山並んでいる。孝勝寺に向かうタクシーの運転手はずっと風呂に入っておらず、備蓄の米を炊いて作ったにぎりめしで今まで過ごしてきたそうである。10時に孝勝寺に到着、早速谷川海雅貫首猊下、日野教恵宮城県宗務所長とお目にかかる。猊下が地震当日のお話をしてくださった。地震は3分ほども長く激しくゆれた。その後5回にわたる津波が押し寄せ、特に3回目あたりの津波の威力がものすごくかなり内陸まで押し寄せてきたそうである。
 宗務所会議が始まった。参加は所長さん他四名の役職員しか集まれず早速宮城県内各地の情報の照らし合わせ、各寺院各聖の現況と安否確認から始まる。話は想像を絶するものである。幸い宮城では教師は全て助かっている事が確認されたが、続いて本堂庫裏全壊及び半壊一部損壊等順に報告がなされた。しかし概略的な情報しか集まっていないとの事、所長はガソリン入手次第全ヶ寺を回りたいと発言された。私がどのような援助が必要でしょうかとお尋ねしたところ、物資は日に日に沢山入ってきている、漠然といただいても人出が無いので分配が大変で、寺によっては建物の損壊は免れたが仏具、衣、袈裟、白衣、足袋の類まで泥につかり法要回向が出来ないところもある。このような非常事態の際行政はまず人命救助、次に被災者支援、道路交通網の整備、インフラ復旧から着手する為、寺の復興は自力でするしかない。寺を地域の救済拠点にしたくても現状ではとても難しい。泥と瓦礫に埋まってしまった境内の清掃、仏具の整頓等一般の人には任せられないので教師の方々の助けが必要だとの事である。
 仙台を中心として北から南へ500キロの海岸沿い、かなり内陸まで全て瓦礫の山と化している。新潟地震や阪神地震を経験された救援隊があまりの範囲の広さと津波被害という初めての体験でノウハウを生かせず困惑しているとの事である。教師担任各位も被災死者の仮安置所に回向に出向きたいが、とても自分達が動ける状態ではないので、自分達に代わって行って回向して欲しい、被災の地で浜に向かってお経を手向けて欲しいと依頼を受け、昼過ぎ遺体安置所となっている仙台市の郊外にある体育館グランディ21へ出向いた。宮城県警管理の元数え切れないほどの遺体が安置されている。被災から12日が経ったが、身元がわかって引き取られた遺体の数はごく少なく、大半は身元不明、持ち物などから身元が分かってもその家族の行方が分からないご遺体も多い。1600を超える御棺があるという前で読経回向する。発見された場所ごとに安置されており、この一隅が若林区ですと言われその方向に向かってまた一読する。
 翌日その若林区のみたまに導かれるように被災の地へ赴くこととなった。若林区へ入って海岸に近い高速道路の土手が津波の被災地と非被災地の境目になっており、検問所が設けられていた。タクシーや一般車両は被災地に入れないという。私の立場と事情を説明すると渋々であるが若い警官から許可が下りた。早速現地に向かう。一面の泥の海、田んぼに車が転々と埋まっている。道路は辛うじて通れるようになっているが自衛隊が壊れた家や木の撤去作業に懸命に取り組んでいる。立派な瓦葺屋根の部分だけがぽつんと泥に埋まり、鉄骨の建物には松の木が沢山突き刺さっている。車が数台家の中に突っ込んでいたりしている。地震まではリゾート風のベイエリアで、瀟洒な建物が並んでいたそうであるが今は全くその面影は無く、まだ多くの遺体が埋まっていると言う。地獄絵図とはまさにこのことか。夢中でお経を手向ける。
 避難所も数箇所回らせていただいた。刻々状況が変化している。震災後数日は水も食料も毛布も無くそれらを渇望する声がマスコミを通じて報じられたが、今や国をはじめ同じ震災にあった新潟や阪神、また近県から組織だった力強い援助の手が差し伸べられ、よく訓練されたボランティアの活躍によって支援物資は行き届き、場所によってはむしろ過剰に届いてその整理に人手が足りないほどの避難所もある。民間にも物資の支援が呼びかけられたが、一つのダンボール箱に様々なものを詰めて送ってきたり箱の表に内容物が書かれていないなどルールが行き届いておらず、中には古着や使いかけの文房具類を送ってくる人もいて、かえってその仕分けと整理に人手が必要となり、既に募集をやめたところも多い。
 翌24日に仙台の火葬場葛岡斎場へ向かった。立派な建物が無傷で残っている。その一隅で仙台仏教会の有志が無料で回向しますという張り紙を貼って待機されていた。お話を伺うと仙台市内で火葬できる方々は幸運で、多くは遠い県外の火葬場へ行かざるを得ない。また東北全体で重油も足りずグランディ21で身元の分かった引き取り手の無いご遺体は公営墓地や斎場の傍に土葬される事が決まったとの事である。その日の奉仕の僧侶の中には日蓮宗教師の姿が無かったので私がしばらくの間奉仕させていただいた。その間に仏教会の事務局長さんにお話を伺うことができた。宮城県は元々行政と仏教会の関わりが薄く、被災直後は遺体安置所も火葬場も僧侶の出入りが出来にくかったとのこと、今も出入りする僧侶は少ないという。東京は明治に入ってすぐ江戸の三昧処(火葬場)五箇所を東京市が管理運営したが、比較的早い時期に民営化された。その博善社の株を葬儀社と寺が持ったので火葬場へ僧侶の出入りが自由で、僧侶に丁寧に接してくれる。また私が所属する東京墨田区本所仏教会は関東大震災遭難者5万8千人と東京大空襲で焼き殺された10万人を祀る東京都慰霊堂で毎年2回の法要回向を行っている。関東大震災翌日遭難死者への回向を行った日蓮宗僧侶二人の活躍とそれに啓発された本所仏教会の僧侶方、東京都仏教会の僧侶方の奉仕活動が基であり、その活動に感銘を受けた天皇陛下からお言葉を賜ったことから、現在も毎回皇族がご臨席になり東京首長が主賓となって仏式で慰霊法要が営まれている。このことをお話しすると、これからの仙台仏教会の活動の参考になると、しきりにうなずかれた。
 このたびの未曾有の災害で亡くなられた方の多くが供養を受けずに葬られている。弔いの仏事慣習は地域によって異なり、東北地方ではもともと通夜の翌日葬儀の前に火葬されることが一般的である。お骨になってから葬儀、告別式が行われるので、元来火葬場に僧侶が行く事は少ない。しかし今は非常の事態である。火葬後の回向供養の場も無く遺族にその余裕も無い。また被災地の僧侶だけでは全く人数が足りていない。僧侶自身が被災者でもあるからだ。物資を集め義援金を募ることも長い期間続ける必要があるが、今我々僧侶は、この日この時に僧侶にしか出来ない支援活動をしようではないか。ただし、回向供養の仏事習慣には東北の文化に育まれた地域の伝統があるので他県からの僧侶がご奉仕するときはどうか地元の慣習を尊重していただきたいという言葉を戴いた。
我々日蓮宗としての支援活動も重要であり、すでに各組織が物資の収集や大規模な募金などを開始しており、若手の僧侶達も多く現地に入って被災者の支援に活躍している。ただこのたびの災害はあまりに甚大で、日本国全体が相当長期間にわたって取り組まなければ復興はなし得ない。被災し全てを失った人々が「生きていて良かった」と思える日が一日も早く来るよう、仏教会、いや宗教界こぞって宗派の垣根を越え長い年月にわたる供養を念頭において、ともに活動することも必要と考える。 4月28日には四十九日忌が来る。

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東京・永代供養納骨堂の春慶寺Syunkei-ji Tokyo Japan