住職のお話し

27)御回向供養について

春慶寺住職

 この一年も多くの方のご法事の御回向御供養をさせていただきました。法要後の法話でもお話している事ですが改めて回向供養について述べたいと思います。
 「供養」とは「供えて養う」と書きますが、実は花や供物を「供えさせていただき」、ご先祖から己の心を「養って」頂く、という意味であります。そして「回向」とは「回って向かう」と書きますが、これはご供養する心がご先祖に届いて私達に向かって返ってくるということなのです。本堂やお仏壇に向かって手を合わせ故人様に「愛しているよ」と呼びかけると「私こそ愛しているよ、お前を守っているよ」とみたまの声が返ってくる。花や供物はご本尊やお位牌には向けず、私達の方を向けてお供えしますが、これは故人様に向けた愛情が私達へ向かって返ってくることを象徴しているのです。線香も己を燃やしてよき香のみを残すという、無償の愛の実践を表しているのです。皆様はこの尊い行いをご神仏やご先祖に対して日頃ごく自然になさっておられます。
 このように本堂や仏壇に向かって私達が日頃自然に行っている事、その心持を、生きている人間同士互いに向ける事ができたら、どれほど良い世の中になるでしょう。春慶寺の玄関に安置していますのは「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」、法華経第二十品にお釈迦様の前世談として語られている一人の僧の姿です。この僧は「一切衆生は仏の子であるから、正しい教えである法華経を持(たも)てば必ず成仏できる」と説いて回りました。彼はあらゆる人に向かって手を合わせ「わたしはあなた方を軽んじませんし、あなた方は軽んじられる人ではありません。なぜならあなた方は誰でも皆菩薩の道を行じて仏となられる方々ばかりだからです」、こう言って人々を拝んで歩いたのです。末法の世が近づき人心の乱れた時でありましたので、この僧に拝まれた人は彼の言葉を信じずむしろ気味悪がり、「常不軽」とあだ名をつけて石や土くれを投げ、棒切れで殴る者までありました。しかし彼の心は泰然として動ぜず、「私が礼拝し続ければ増上慢(ぞうじょうまん)の人々の仏性も必ず私の仏性を礼拝し返してくれるようになる」と、その行いを続けました。
 春慶寺で働いている者は、「合掌して挨拶する」ということを実践しています。はじめのうちはなかなか合掌して挨拶を返してくださる方がいませんでしたが、今ではここを訪れるほとんどの方が美しい笑顔で手を合わせご挨拶してくださるようになりました。わけても小さな子供さんが合掌してくださる姿は何にも代えがたく美しい姿です。寺とは集う全ての命の愛の波動が共鳴するやすらぎの場所であると、お釈迦様はおっしゃっておられます。
 私は「縁(えにし)」という言葉が好きです。そして、春慶寺にまします御神仏の元、「縁(えにし」に生かされ生きていくこの世の全ての「命の平和」を祈る毎日でありたいと願っております。
 年が明けますと私も五十九歳となります。出会う人の数よりも別れのほうが多くなりました。人生の長さは己の力ではどうにもならないものだと思います。頂いた寿命の限りを精一杯に使って、良い事を積み重ねられたらと考えます。百年生きられたとしても、重ねられるものは僅かかもしれませんが、精一杯を念じつつ。どうぞお健やかな佳き新年をお迎え下さい。

南無妙法蓮華経

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東京・永代供養納骨堂の春慶寺Syunkei-ji Tokyo Japan